シャミッソー著「影をなくした男」岩波文庫

 毎度毎度のドイツ文学レビュー。
 モチーフはユニークで、寓話的な雰囲気が面白いは面白かったですが、いまいち盛り上がりに欠けたかなというのが正直な感想です。主人公は金がいくらでもでてくる袋と交換に自分の影を謎の男に与えますが、影がないことによって主人公は名誉も信頼も失っていきます。「影」というモチーフを通じて人間の本質を問う話ですね。
 人間の「影」って一体なんなのか、解説で翻訳担当の池内紀さんがいろいろ書いていますが、他の童話でも「影」のモチーフを発見することが出来ますね。ゲド戦記の第一巻は「影との戦い」です。「影をなくした男」よりも影が能動的に動き、主人公は自分の影と対峙するのです。これは面白いですよ。
 影が勝手に暴れ出す話は確か、ドラえもんにもあったような……。いろいろなところで使われているんですね。
池内さんは解説で、ある年頃になると潜在的な自我に気が付き「私という他人」を発見する、とのことです。主に「影踏み」などの遊びを通じて獲得するのだそうです。しかし、最近日常生活で「影」を意識する機会は薄れてしまったような気がします。ゆとり教育、大人のマナー低下、モンスターペアレントなどなど話題は尽きません。自分は諸事情で毎朝大量のお客さんを扱うバイトを行っているのですが、明らかに大人として相応しくない態度で、平然と公の場があたかも自分の家であるかのように振る舞う人のなんと多いことか。大人は本来子供に見本を示すはずなのに、子供の方がむしろ態度がよく、迷惑な大人にもみくちゃにされている場合もあります。子供はある時、絶対的かと思っていた大人が、実は絶対的でもなんでもなかったと気づいて大人になっていきますが、それを発見する時期が思春期よりも大幅に早まると、性格の成長に支障を来すおそれがあると思うのです。それで子供もあわせてマナーが悪くなっていくんですね。
 ひとえに、これらのマナー低下は「私という他人」に気が付いていない人があまりにも多い、ということが考えられます。忙しい毎日ですが、最近ふと立ち止まって自分にも影があることを確認しているでしょうか? その程度の心のゆとりはあるべきなんでしょう。自分も本書を読むまでは忘れていましたね、反省、反省……。
 子供の頃、影踏みをして遊んで、少し不思議な気分になった記憶がよみがえってきました。そのような経験こそ、「私という他人」認知に一役をかっているのでしょう。外で遊ぶことなく、室内でゲームやインターネット三昧という、自分の影を見ない、省みないことばかりをして成長した世代がこのような結果を招いているのでしょう。我々、とくにゆとり世代はもう一度黄昏時に公園に集まって、影踏みに興じる必要があるのかもしれません。主人公の男のように影をぞんざいに扱っていると、いつの間にか「影」は自分から離れていて、人間としての本質が失われているかも知れません。それに気づくことができないのが一番の恐怖です。
 なんだか長くなってしまった上、本書についての言及はさほどしませんでしたが、とりあえず読んでみて下さい。ページ数が少ない上非常に読みやすいです。

影をなくした男 (岩波文庫)

影をなくした男 (岩波文庫)

ゲド戦記 1 影との戦い (ソフトカバー版)

ゲド戦記 1 影との戦い (ソフトカバー版)

 以下の本が扱っているのは人間の性格としての影ではなく、単に風景における影なので、とくに本書とは関係ないですが、いろいろ取り上げられることも多いので紹介しておきます。進学校でエロいことは扱わない主義だけど悪女文学で有名な谷崎潤一郎の名前が文学史にあるから一応何かを紹介しなくちゃいけないかなと必死に考えて挙げ句紹介されることの多い(エロくはない)本です(笑)。

陰翳礼讃 (中公文庫)

陰翳礼讃 (中公文庫)