ツンデレと愛

 近年「ツンデレ」の記号化が進んでいるが、主に以下の二極化が進んでいるように思われる。

(1)主人公が嫌いで、居丈高に振る舞うがたまに「デレ」の部分を思いがけなく見せてしまうヒロイン。
例:異論はあるかもしれないが、「涼宮ハルヒ」がわりとこの傾向を有していて、どうしても好きになれないアンチが後を立たない。


(2)主人公が好きだが、なかなか素直になれずどうしても「ツン」を演じてしまうヒロイン。
例:KOTOKO「Mighty Heart〜ある日のケンカ、いつもの恋心〜」つよきすOP



一口にツンデレと言っても、そこにヒロインからの愛があるかどうかはそのキャラクターによって異なる。ストーリーが進むにつれて(1)から(2)へ移行すれば良いのだが、ただ単純に主人公に対して居丈高に振る舞うだけで、読者(視聴者)はそれを「ツンデレ」キャラと認識し、愛してしまう傾向が最近は顕著である。

果たして、そこに愛はあるのだろうか。

ツンデレが汎用化した今、物語受容層である我々読者・視聴者はツンデレに対して免疫を付け、「デレ」状態が極端に少ないキャラクターでも「ツウ好み」として受け入れてしまう傾向にある。しかし、キャラクターに愛がないにもかかわらず、「ツウ好み」だとして勝手に決めつけて受け入れてしまうのは、キャラクターの奥にある愛を見抜いているのではなく、単に劣性のものを受け入れているだけではなかろうか。
ツンデレ比率がどうのこうのという問題ではない。ツン:デレ=99:1でも、その1パーセントに輝くような情熱があるのであれば問題はないのである。
問題は、たとえ7:3程度であっても、そのデレ部分にちゃんと主人公を愛する気持ちが含まれているかどうかなのだ。「デレ」部分がただ単に恥ずかしがっているような仕草や、主人公をちょっと許してやった程度のものであれば、ただ単にそのキャラクターの性格が悪いだけであり、それを受け入れてしまう需要層は悪女に踊らされているだけの可哀想なオタクだというだけである。

読者側も、ただ単にキャラクターを「ツンデレ」と認識してしまうのではなく、そのキャラクターの内面奥深くまで潜ってみて、そこにどのような感情があり、彼女をどのような行動へ駆り立てているのかを見抜く必要があるだろう。それを怠るのはむしろキャラクターに失礼である。