けいおん!論

http://blog.television.co.jp/anime/animekai/2009/06/post_458.html
↑とりあえずここの文章読んでみてください。

なるほどね。この文章もわりと納得したけど(いやまあ、萌えだ!萌えだ!と力説されても困るのだが)、一文学部生としてあえて反論してみる。
 わざわざ物語性を逸脱してヌーボーロマンが目指したものはあくまでも「新しい文章技術の獲得」である。二人称小説だとか、意識の流れの叙述だとか、従来の「むかしむかしあるところにおじいさんとおばあさんがいました」テンプレからの逸脱を目指したものだった。だから最近のアニメの傾向を安易にヌーボーロマンに結びつけるのもどうかとは思うけれども、一応考えてみる。

 アニメは微妙だが原作漫画は結構気に入っている。漫画「けいおん!」は従来の漫画とは一線を画す特徴があって(これは推理研の先輩が指摘したことなんですが)、それは「主人公たちの過去が一切語られず、ひたすら日常が進んでいく」ということ。らき☆すたもそれに近いものがあるけれども、「けいおん!」は特に顕著。

 たとえば、漫画で秋山澪というキャラクターが登場し、唯と初対面する。この時、我々が持っている秋山澪の情報量と唯が持っている秋山澪の情報量って同じなんですね。通常ならばキャラクター個人の持っているトラウマだとか、趣味対象遍歴など過去のことが物語の観客には特権的に与えられるものだけれども、この漫画はそれが一切存在しない。我々は唯と同じ情報量で秋山澪と接する。それは、我々を学園生活そのものに投げ込むためのリアリティーを生みだす。

 というわけで、漫画にはある種の技術的なものを模索したのかなという形跡が見られるんですが、京都アニメーションによる編集でこの技術が蔑ろにされているんですよね。

 例を出すとわかりやすいと思います。第一話、アニメでは子供の頃から唯がうんたん!している→とりあえず軽音部へという描写がなされます。漫画では幼少期の唯は登場しません。この、視聴者のみが特権的に神の視点で見られる唯の過去エピソードは、京アニがあとで付け加えたものなんですよね。

 一見、これは物語性を出すための手段かもしれないけれども、実はただたんに漫画でやろうとしていたリアリティーの演出手段を踏みにじる結果にしかなっていないのです。そもそも、唯が朝目覚めて学校へ直行するというアニメのオープニング自体、漫画「けいおん!」が目指そうとしていた技術に反するものなんですよね。

 原作は確かにヌーボーロマン的と言えるかもしれませんが、アニメは必ずしもそうではないということです。徹底して日常そのもののみを描いた作品であれば前衛的作風として異なる評価が加わったかもしれませんが、付加要素的な物語性があったばかりに(しかし原作がアレなのでそれ自体物語にはなりきれていない)、単なるオタクの逃避願望実現的なアニメだと評されても仕方ない面があります。

 ついでに話すと、OPの「Cagayake! GIRLS」はかなりの難関曲でメロディーラインが気に入ったのでCDまで買いましたが、これって原作の漫画とはかなりかけ離れた歌詞ですよね。

男子禁制のプリ帳、恋綴った日記帳、当分恋愛は中止、片思いでも玉砕で……などと恋愛に関する文言が続きますが、原作の中に恋愛要素(特に男が出てくるもの)は全くないです。
あと、唯が「かなり地球に優しいエコじゃん!」と言うとは考えにくいし、軽音部自体が放課後にティータイムすることを推奨しているのにこの歌詞では部活頑張っちゃう的な内容になっている。まんがタイムきららの作品はまったりとした日常を描くものが多く、「けいおん!」は究極的にそれを行ったものなんですが、アニメ版だとあだち充辺りの影響をモロに受けた単なる「部活物語の一つ」に成り下がっているのが歌詞聴いてわかります。それでいてキャラクターが成長していかないから物語性が欠如していて余計奇妙に感じる人が出てくるのでしょう。

 とまあ、辛口で論じてきましたがわりと唯ちゃんは好きです。ただ、唯ちゃんはかなり地球に優しいエコじゃんとか環境のこと、というか流行のこと考えたりしないで、狭山茶でも飲んでまったりしていて欲しいと願うのが正直なところ。

12月発売の3巻は買うぞ。

けいおん! (3) (まんがタイムKRコミックス)

けいおん! (3) (まんがタイムKRコミックス)

参考:http://news.livedoor.com/article/detail/4401587/