「キノの旅」と旅をめぐる話

 人気ライトノベルキノの旅」をご存じだろうか。寓話的だとか、あとがきがメタ的で面白いとか、様々な批評があるとは思うが、今回はこれを題材に作品自体の面白さと現実における旅行の意味を考えてみたい。というのも、以前母校の入試問題(過去問)で、固有名詞を使わずに旅の効用、自分の感じた旅情を書けという問題があり、前々から気になっていたのである。問題から大きくはずれて本論では固有名詞が氾濫するけれども、そこはご容赦いただきたい。
 「キノの旅」は旅人である主人公とその乗り物であるモトラドが諸国を行脚して、数奇な価値観を有する共同体や個人に出会い、不思議な体験をする話である。現在、ライトノベルの入門書として本書を胸に刻んでいる少年少女も多いのではなかろうか。この作品の魅力とはなんだろう。
 現代、とくに日本ではだいたいどの都道府県に行ってもコンビニがあり、都市を中心に一定の文化が形成されていて、価値観の違いこそあれど適用される法律や言語はほぼ同一であると言っていい。日本国内であればいきなり原住民にとっつかまって謎の国王に献上されて一生奴隷として過ごすなんてようなことにはならない。これらは交通網と情報網の発達によってなし得た一面がある。しかし、19世紀以前は日本だけでなくヨーロッパ諸国であっても互いの共同体に関して不干渉で、自分の生息域ではオリジナルな文化を有していながら、他との干渉はいっさいなく、自分の国や共同体だけが唯一の倫理・世界であるような認識がなされていた。それらはいわば「動かない文化」である。各共同体を結ぶ交通手段が徒歩のみであった時代、価値観を共有することは非常に困難であった。「キノの旅」の作品世界を構築しているのはそのような19世紀以前の「動かない文化」の集合体であろう。
 これが19世紀後半になるとキネティックな文化になってくる。キネティックというのは「動体的な」という意味である。蒸気機関車、自動車、通信などが次々と開発され、旅行という文化が花開いた。ヨーロッパで旅行が大流行し、日本でも坂本竜馬が本邦初の新婚旅行に出かける(ちなみにこの辺りの論は今日受けた授業の受け売りである)。
 ドイツ語では映画館のことを「キノ」と呼称する。名前とはその存在の本質を表すものだ。つまり、「キノの旅」の主人公「キノ」とは、「動体」そのものなのである。キノは明確な意思を持って旅行している(誰かを探している、etc)のではなく、旅をすることが「キノ」の存在意義なのだ。そのような旅人は高貴な人物であり、一部を除く各地で歓迎される。日本では定期的に来訪してくる神様を「まれびと」として崇める習慣があった。
 キノは「動かない文化」から「動かない文化」へ旅して回る。各共同体間には草むら以外なにも存在せず、交流は特にない。このような数々の異文化を見て回ることは、19世紀後半になって先進諸国が辿って行ったプロセスに近いのである。
 「キノの旅」の面白さはゲーム「ポケットモンスター」の初プレイ時と似ている。互いの町の間には草むらがあり、主人公はそこを通ってポケモンの襲撃に逢いつつ、出会ったり別れたりして先へ進まなければいけない。ただし、ポケモンが「キノの旅」の世界に比べて近代的なのは、各町にはポケモンセンターやジムなどといった共通の基盤があり、またゲームのクリアに関しては何度も同じ面をシミュレーションして双子島などの構造を把握し、先に進めていく必要が生じてくることである(そして蛇足だが、金・銀になると新幹線が開通する)。対して「キノの旅」は出会うものすべてが新鮮だ。だからこそ面白い。寓話的と呼ばれるゆえんでもあるかもしれない。
 現代はどうだろうか。われわれが生きている社会は「キノの旅」世界から遠く離れ、「ポケモン」社会を凌駕し、「シミュレーションされつくした社会」に生きている。「動体」として情報も電車も飛行機も何もかも飛び交っている。首都圏の主なターミナル駅であれば駅前にコンビニが一軒くらいはあることくらい常識として知っている(たまに例外があって困惑するのはそのためだ)。各都市圏でも大手チェーンの店が乱立し、店が建っては潰れていく。そこに「動かない文化」は限りなく少ない。
 こんな世の中で旅行をする意味とは何だろうか。ひとつは各地の残された「動かない文化」の残滓をかき集めることだろう。鉄道が開通してはいるものの、まだまだ(「キノの旅」世界ほどではないが)独自の価値観を色濃く残しているところは少なくない。これらの見聞をし、異文化を体験するために旅行に出かける。ただし、文化の後継者不足や相次ぐ新幹線の開通、都心への共通意識によってこれらは急速的な速さをもって薄まっている。旅をするなら今のうちだ、という発想。
 もうひとつは異なる土地で見つける共通概念の発見。「ポケモン」をやっていて瀕死状態でようやく町についてポケモンセンターを見つけたときの安堵感はプレイ者にとってはご存じだろう。いくら「イオン」「しまむら」「SATY」などといったチェーンを毛嫌いしても、いざ地方でそれを使うと何かほっとした感情が得られた経験はないだろうか。異なる文化を見つめることが旅行だった近代とは逆説的に、ポストモダンの世の中では同じものを探すのが一つの旅の楽しみになっているかもしれない。各地のアニメイトめぐりとか、ブックオフめぐりとか、前近代ではなしえなかった異色の旅を現代では楽しむことができる。
 しかし、ここまで書いてみるともうひとつの仮説が浮かび上がってくる。旅人のキノはひょっとしたら、先ほどのべたポストモダン的な旅の楽しみも見つけていたのではなかろうか。それはアニメイトとかブックオフとかポケモンセンターなどといった形あるものではない。全く価値観のことなる共同体であっても、その中で育まれている人情・思いやりの共通性だ。その他にもいろいろなものが見つかってくるとは思う。現代では形となってしまったが、かつては各「動かない文化」に共通する抽象概念があったのかもしれない。各未開文化を調べていった文化人類学者の求めた夢でもあろう。最初に掲げたライトノベルも、そのような楽しみを見出せるに違いない。