秩父路を往く

 翌日は秩父鉄道に乗ってひとまず秩父で下車、秩父鉄道のフリー切符と横浜人形の家入館券を取り違えて改札の駅員に見せてしまい、それはなんですかと聞かれるハプニングがありつつも無事に秩父神社の参拝を終え、じばさんセンターで産地が小鹿野町のキクラゲ、秩父牛乳を購入しました。キクラゲは前回秩父を訪れたときに味が気に入ったので再び買ったものです。なお、秩父には秩父検定というのがあり、受験料3000円で秩父マスターの称号が得られるそうです。
 続いて下車したのは長瀞駅。ここから程なく歩き、ひとまず宝登山ロープウェイへ。
 長瀞の時点で異様に人が多かったんですけど(昨日あれだけ辺境に行ってきたから多く感じただけかもしれませんが)、ロープウェイの乗り場がなんかめちゃくちゃ混んでました。ロープウェイは30分に1本の運転とのことでしたが、当日は臨時便をバンバン出してピストン輸送していましたね。
 それでもなんとか乗れて(もんきー号)、宝登山の山頂駅まで登りました。ピカチュウっぽいイラストが描かれた某国の著作権侵害遊園地を彷彿とさせるゴミ箱がありましたが、まあきにせずろう梅を見ることに。
 ろう梅は今が旬です。地元の人に聞いてみたところ、今年は寒かったせいか開花がやや遅れたそうでしたが、青空に黄色い繊細な形をした梅が映えてなかなかお見事でした。ご老人が多かったですが、地味なイメージがありがちな秩父にしてはかなり観光客の多い場所でしたね。宝登山神社の奥社も雪が残った木々の中にある荘厳な雰囲気で、神々しい様相でした。
 麓の宝登山神社をお参りした後は、「ゴーシュ」という純手打ちうどんの店で生醤油うどんを食しました。店員がいきなり食品衛生問題について話しかけてきて、中国の餃子は駄目だとかプラスチック容器は環境ホルモンが付くからやばいとかそういった話で盛り上がり、なんだか大変そうでしたが味は頗る良かったです。太い麺でコシがあり、何と言っても安い。ここはお薦めです。
 その後は波久礼で下車、徒歩15分ほどひたすら坂道を登り、かんぽの宿寄居で日帰り入浴をしました。内風呂のジャグジーは温泉ではなかったんですが、内風呂の通常浴槽と露天は泉質の良い温泉で、肌がツルツルします。金山温泉が泉源で、ほとんど無色透明ですが若干湯の華が浮いていました。
 そこで出会ったおじさんと仲良くなり、日本の政治問題や支配層の腐敗について熱く語り、新井周三郎という人物について話してくれました。新井周三郎は秩父事件の際、甲大隊長を務めた人物です。
 秩父周辺はかつて桑畑を管理し養蚕業で生業を立てていましたが、外国との輸入関係で生糸の値段が下がると栽培品種の変更を余儀なくされ、野菜などを作ってはみたものの、桑畑の跡地は土地が痩せてしまって、盆地である地形は米の栽培に不向きで、住民の生計は非常に貧しいものになっていました。そんな中、生活改善のために立ち上がったのが秩父事件です。
 新井周三郎は20歳くらいの若い人物でありながらリーダー格を務め、駄目とは分かっていながらもこの地域がすこしでも活性化するようにと立ち上がったそうです。
 僕が出会ったおじさんは露天風呂で高らかに、自ら作詞した新井周三郎の歌を披露してくれました。おじさんはこうも語っていました。目先の事に囚われて金儲けばかり考えていては駄目だ。日本の企業でも共同体でも、後継者の人材育成が必要なんだ、とのことです。
 帰りは寄居から川越まで東武線を使い、深谷ねぎを使用している埼玉の名物餃子チェーン店、ぎょうざの満州で打ち上げをしてレッドアロー小江戸号で帰宅しました。

 日本は今、東京をはじめとした都市部だけに人口が集中し、そこに住まう人々はそここそが日本の全てなのだと思いがちです。日本をろくに知らないのに、グアムやその他の人工的に整備された海外の観光地に行ってしまう傾向が強いです。しかし、都心から二時間ばかり離れた所でも、これだけの人が都心部の人々とは全く異なる生き方をし、中には素晴らしい文化・資源があるのです。
 秩父は某堤鉄道が管理したものの、バブルが弾けてしまってから観光地として崩壊し、地元の人々が必死に支えている地方です。しかしその中でも今回訪れた長瀞のろう梅は成功している方と言えるでしょう。このように、ちょっとしたアイデアで日本の地域は救われるのです。彦根城ひこにゃんなどはその典型例でしょう。
 ひとまず埼玉を訪れてみてください。都心から西武線東武線ですぐ近くです。二時間ほど町を歩いても結局5人しか人間を見なかった町、歌舞伎を必死に守り抜こうとする町、まさに隠れた名品とも言うべき極上のわらじカツ丼を細々と提供する町、ろう梅でなんとか観光客の獲得に成功している町、素晴らしい温泉を育む町、産業の活性化が死活問題になっている町、様々な日本の姿が凝縮されていると思います。そこに人が生活しているという事実を決して忘れてはいけません。そして、これらの町が都心と共に豊かになるためにはどうすればいいだろうと考える義務が、都心在住の人間にはあるのです。