秋田温泉旅行 その3



 宿でゆっくり朝食を摂り、駅前からふらふらとバスに乗って厨川駅前で下車。駅前は晴れているにもかかわらず雪が降っていて、新幹線の線路をふと見ると「ファステック」が走り抜けていった。花巻線からの列車が遅れているとのことだったが、自分が乗る予定の列車は時間通りにやってきた。
 花輪線は途中まで順調な走行を続けていたが、松尾八幡平を過ぎた辺りから吹雪になり、安比高原では前の視界もままならないほどの大雪となった。旅行出発前に母親と「今の時期なら地吹雪ツアーが津軽鉄道でできるんじゃない」「まさか、記憶の頃より地球はだいぶ温暖化しているよ」という会話を交わしたものの、僕の意に反して本当に地吹雪ツアー開催となってしまった。ついに荒屋新町を出たところ、雪山の何もない場所で一両編成の列車は立ち往生。乗務員同士が慌て出し、電話で連絡を取り始める。「ただいま関係各所に連絡しております」とのこと。恐怖の時間である。しかし、悪い予感は外れて列車は難なく動き出し、スイッチバックをする十和田南では定刻通りに戻っていた。
 何やら天気も晴れてきたようで、うかれた気分でいたら昨日転んでぶつけたところが痛み出す。なにやらこちらの方も「腫れてきた」ようである。旅はどんなハプニングが待ち受けているか本当にわからない。

 花輪線はほぼ定刻通りに大館駅に到着。昼食はこちらの駅名物の駅弁、「鶏めし」に決定。鶏肉と味のしみたご飯の取り合わせである。これを奥羽本線の車内で食し、列車はまもなく青森駅に到着した。
 青森駅青函連絡船の発着駅として栄えた場所で、ホームの前方には青函連絡船用の連絡通路があるが、今は閉鎖されている。海岸には八甲田丸が止まっていて現在は博物館として営業しているが、あいにくその日は休館日だった。それでも本州で最も北に位置するターミナル駅へ到達できたことは非常に感慨深く、海の近くまで歩いていって思わず感嘆の声を漏らしてしまった。その後、駅で「生まれて墨ません」という太宰治をモチーフにしたおみやげを購入し、浅虫温泉行きの列車に乗った。
 列車は陸奥湾沿いをかろやかに走行してほどなく終点の浅虫温泉に到着。その次にやってくる八戸行きまでの約40分間のうちに温泉に入ってしまおうという強行軍である。幸いにも駅からペデストリアンデッキを渡ってすぐのところに温泉施設があり、荷物を押さえながら歩いていったのだが、とにかく海から吹き付ける風が強い。今まで経験したことのないような風の強さで、海に向かって歩いていくと呼吸がまともにできないくらいである。風に耐えながら大急ぎで施設の中に入って、列車が駅に到着した5分後には浴槽の中に浸かっていた。

 こちらの施設もお湯はたいしたことがないが、海のパノラマがとにかくすごい。岩城みなとで浸かった温泉よりも海の光景は荒々しく、露天風呂はなかったが風が強いのでこれでいいやと思ってしまった。浴槽は熱めとぬるめの二つに別れていて良心的である。駅から近く、風光明媚だというのが最大の利点であろう。
 再び風に耐えながら駅に戻り、列車に乗り込んだ。すると案の定列車の方も途中で止まってしまった。風が強すぎるため、次の西平内駅まで時速25キロの減速運転を行うとのことである。
 行く末を憂いていたが、西平内からは通常の速度での運転に戻った。八戸から青森にかけての東北本線沿いには鉄道防雪林が整備されている。特に野辺地駅前に広がるものは日本最古の鉄道防雪林として鉄道記念物に指定されているらしい。鉄道記念物の存在自体を初めて知ったが、確かに車窓から木々を眺めてみると神々しい。以前、鉄道の趣味を紹介するテレビ番組で「鉄道防風林マニア」が紹介されていて、その時は訝しく思ったものの、こうして自然の偉大さを目の当たりにしてみると、なんとなくその気分が分かってしまうから不思議だ。
 列車は奇跡的な回復運転を見せて、10分ほど遅れて八戸駅に到着。新幹線ホームに今朝みたファステックが停車していた。しかし僕はそれを注意深く見ることなく、駅前バスターミナルへ向かった。
 自分の所属しているサークルにはバスマニアの先輩がいて、八戸の南部バスには是非乗ってこいと言われていたのである。南部バスでは京急バスの中古車であるいすゞCJMが数多く残存していて、モノコックの大型車に乗るまたとない機会なのである。

 八戸駅前バスターミナルにそれらしきバスがやってきたので慌てて飛び乗った。外壁は錆び付いていてところどころ穴が開いている。車内も木造の床で、いかにも古いバスである。方向幕には中心街・ラピアと書かれていて、最初に脳裏を掠めたのは「このバスは一体どこへ向かうのだろうか?」という疑問だった。新幹線の発車時刻までは二時間ほどあったので別に問題はないと思ったが、それにしても自分の乗ったバスがどこへ行くかわからない。アメリカの「Down town」じゃああるまいし、中心街ってどこなんだろうとバス車内で路線図を探すも見つからず、運転手に発車するので座って下さいと怒られてしまった。仕方がないので中心街まで着たら降りようと模索しつつ、いすゞCJMに揺られて見知らぬ土地を目指した。途中で降りても良かったのだが、経由が違うと本数が少なくて路頭に迷うと嫌だったし、せっかくなら中心街を見てみようと思ってそのまま乗り続けた。新幹線の発車時刻は刻々と迫っていたが、まあなんとかなるだろうという鷹揚な気持ちで望んだ。
 確かにすごいバスである。モノコックというのはフレーム構造を持たない車のことであり、バスの揺れが直に伝わってくる。エンジン音もとにかく激しく、古くさいなあという感慨よりも、よくここまで持ちこたえていたなあという印象の方が強かった。結局先輩の言うとおりに乗ってみて良かったと今では考えている。
 「中心街」という名称そのもののバス停は結局存在しなかった。○○日町というバス停が連続する箇所がどうやら繁華街らしく、適当にバスを降りてみると、どうやらそこが八戸市の中心街だったらしい。どちらかと言えば本八戸駅の方が近いのだが、本八戸を経由する八戸線(通称うみねこレール八戸市内線)は本数が極端に少ないため、このようにバス文化が南部バス・市営バス含めて発達しているのである。
 中心街は主に一方通行で、反対側へ向かうバスは別の通りにあった。パチンコ屋の前にバス停があって、乗客がちらほら待っている。八戸行きの八戸市営バスがやってきたが普通のキュービックだったので見送り、せっかくだからとその後にやってきたいすゞCJMに再び乗って八戸駅に戻った。往路は行く先もわからずハラハラしたが、復路は窓の外をぼんやり眺めながらかつて東京も走った昭和時代のバスに思いを馳せることが出来た。
 八戸駅ではお土産を買う程度の時間は残されていた。列車の車内清掃が終わり、東京行きのはやて最終便がドアを開ける。一旦乗り込んで荷物を下ろし、発車時刻まで列車のデッキで待つ。開かれたドアの目の前には「はちのへ」と書かれた駅名標がある。時計の針が20時ちょうどを指し、近代的な八戸の駅舎に発車メロディーがとどろいて、新幹線のドアがゆっくりと閉まった。青森県との空気が分断された瞬間だった。それは旅の終わりを告げていた。次に扉が開くとき、列車はもう岩手県にいる。

 八戸駅で購入した八戸小唄寿司という頬が落ちるほど美味しい駅弁を食べながら感傷に浸っていたが、盛岡駅ではちゃんとこまちとの連結シーンをホームで見守った。福島駅の14番線ホームでつばさとやまびこの連結を見ていた子供時代と何ら変わっていない。けれども、今回の旅で通ってきた田沢湖周辺の峠を越えて遙々秋田の地からやってきたこまちと、青森からやってきたはやてがここで再び巡り会うというのは、ある種のロマンを抱かざるを得ない。改めて新幹線の偉大さに感動を覚えつつ、通過していく各駅の夜景を眺めながら、列車はあっという間に東京駅に到着していた。