秋田温泉旅行 その2

 余談だが、自分は旅行の際に荷物削減のために使い捨ての下着を利用している。100円ショップで5枚入りの紙製ブリーフで、破れやすい欠点はあるものの、旅先でポイッと捨てられるので重宝している。この日も、後で大変な目に逢うことは露知らず、この紙製下着を着用していたのだった。
 翌朝7時25分、清々しい気持ちで秋田行きの奥羽本線に乗り込んで大曲で乗り換え、田沢湖線普通列車田沢湖を目指した。田沢湖線秋田新幹線が通る路線なのだが普通列車が極端に少なく、青春18きっぷの攻略難関路線である。朝8時26分に自分の乗った列車は田沢湖駅に到着するのだが、次に田沢湖から盛岡方面の普通列車が来るのは15時44分である。特急券払ってこまちに乗りなさいといわんばかりのダイヤ設定だ。
 実は旅行計画段階で、田沢湖から新玉川温泉までバスを用いて、花輪線の八幡平方面へ抜けるという予定だったのだが、冬季は玉川温泉から鹿角方面へ抜ける道路が全面閉鎖されるらしく、バスの運行が全くないというショッキングな事態が発覚し、急遽田沢湖から比較的近い乳頭温泉に変更したのだった。それでも乳頭温泉田沢湖スキー場からさらに山奥へ行った場所であり、鬼のように雪が積もっていた。春という季節をみじんも感じさせない、冬そのものの光景で、当初は道路閉鎖が信じられなかったが、現地に来てみてそれを痛感させられたのだった。
 乳頭温泉行きの羽後交通バスは観光タイプの大型バスで、車内放送がとても特徴的である。語尾が上がってイントネーションが少しおかしいので、乗っていた他の乗客もくすくす笑っていた気がする。バスは田沢湖畔を経由して山を登っていった。途中から国境の長いトンネルを抜けずとも雪景色になっていた。
 向かった乳頭温泉郷は大小8つほどの温泉旅館で構成される山奥の秘湯であり、それぞれの旅館で全く異なる源泉を用いているのが最大の特徴である。それぞれの旅館は一応歩ける程度の距離にあるのだが、最も有名な鶴の湯だけはやや離れた場所にあり、通常ならば手前のバス停で降りて送迎バスを利用する。送迎バスの通る道を歩いてもなんとかたどり着くし、少し奧の「鶴の湯旧道口」というバス停から旧道を歩いて行くこともできるらしい。後者を採用しようとした若者が一人居て、旧道口の手間でバスブザーを鳴らした。ところが、バスが停車してから運転手が一言。
「本当にここで降りるんですか?」
見ると、旧道と思しき道路は雪の山。通行できる気配はない。若者の顔が青ざめていくのがわかった。結局彼は手前の道路まで戻って送迎バスの通る道を用いることにしてバスを降りていった。絶望するな、では失敬。

 手始めに終点の乳頭温泉バス停から最も近い大釜温泉から入浴することにした。こちらは乳頭温泉郷で最も源泉が強く、強酸性でpHがなんと2.6もある。内湯は木造の暖かみのある施設に褐色を帯びた強酸性の湯が満ちていて、露天風呂はこぢんまりとした熱い湯である。ちなみに露天風呂はもう一カ所あるようだったが、ドカ雪の下に隠れていて氷が張っていた。この露天風呂が営業していることの方が奇跡的なのだろう。
 お湯は気持ちいいがなにしろ熱い。入った時刻が悪かったのか狭い浴槽は数多くの客で芋洗い状態、早々と露天風呂に逃げるも熱すぎて入れない人続出である。温泉慣れしている自分は入ることができたものの如何せん熱い。強酸性のせいか肌がしょぼしょぼしてきて、なんだか落ち着いて入っている場合ではなかったので早々に上がってしまった。それでも身体はホカホカと暖まり、温泉の効果は甚大だったと言えそうである。
 お次に向かったのは孫六温泉。県道を離れ、車の通れない雪道をひたすら15分歩いたところにあるのだが、雪道と言ってもやや拓けたところを歩き、先達川沿いの雪景色が実に見事だった。冬の只見線を旅しているような気分になれた。

 温泉施設は昔ながらのプレハブ小屋を並べた、つげ義春の漫画に出てくるような鄙びた湯治宿が奇跡的に平成の時代まで残存しましたという感じの場所だった。全て自家発電でまかなっているため、部屋にテレビの設備はないらしい。本当に湯治目的の人のための宿である。
 入浴の前に本日の昼食を。600円で山菜うどんを食べられるのだが、これが非常に美味しい。つるっとした稲庭うどんもさることながら、山の幸をふんだんに用いた漬け物やうどんトッピングの類がとにかく美味である。これは大正解だった。

 さて、入浴である。前調べでは、どうやら一部は混浴であるらしい。同じように混浴の「鶴の湯」とどちらにしようか迷い、あちらは人気のためあまりに人が多く、混浴どころではないだろうなと思ってこちらの孫六温泉を選んだのだが、果たして更衣室から浴場を覗いたら誰もいなかった。これはひょっとして失策だったかと不埒なことを考えていると、更衣室から浴場へ続く木製の階段から足を滑らせて思いっきり転倒した。ここまで見事に転んだのは久しぶりである。自分が転んだということを認識してから腰の辺りが痛み出すまでタイムラグがあったが、足の先から腰の辺りまで何から何まで痛かった。激痛を引きずりながら温泉に入浴、主に傷の辺りがひりひりするのは温泉が良い証拠だろう。硫化物系のお湯は木製の床を大変滑りやすくするため、注意が必要である。というか、不埒なことを考えていた罰が当たったのだろう、きっと。
 さて、気を取り直して露天風呂に出てみる。目の前には雪を被った山の広大な景色が広がり、岩場の間に湯の華を湛えたぬるめのお湯が沸いていた。まさに雪山の中のオアシスで、温泉の質も素晴らしい。今までいろんなところに行って来たが、ここまでの秘湯に巡り会えたのは福島県の野地温泉ホテル以来である。途中からやや雨が降ってきたが、本当に大満足の瞬間だった。
 岩の湯と名付けられた場所以外にも辛子の湯という建物があり、こちらへ移動する際には一度服を着なければならない。それ自体は問題ないのだが、例の使い捨て下着を着用してみると、なんだか違和感が隠せなかった。よく見ると、繊維の先から下着が溶けてきている。これはきっと最初に入った強酸性の大釜温泉のせいに違いない。なんということだ。まあ、かろうじて原型は保っていたので、そのままにしてその日の宿である盛岡まで持ちこたえた。
 閑話休題、馬鹿話は置いておいて旅を続けよう。孫六温泉に続く先ほどの道を戻り、県道をどん詰まりまで歩くと見えてくるのは蟹場温泉である。こちらは地元のファンも多いらしい名湯で、バスの時間を考慮するとこちらが今回乳頭温泉郷で入浴する最後の温泉になりそうだ。

 なんとこちらにも混浴露天風呂があるそうで、宿の玄関から一旦脱いだ靴を手に持ち、宿の裏口で靴をはき直して再び雪道を50mくらい歩いていくと眼下に突如として露天風呂が現れる。こちらでは老夫婦が互いの旅の思い出を語りあいながら入浴していた。露天風呂は十分広く、少し離れたところで肩までお湯に浸かる。山奥まで来たんだなという感慨が溢れだした。
 蟹場温泉は内湯も有名で、秋田杉を用いた木風呂は僕の貸し切り状態だった。こちらの源泉は無色透明であるが、孫六温泉のものよりも大粒の湯の華が湯の中をたゆたっている。湯の華の粒をすくい上げて指でこすり会わせてみると、それらは硫黄の残滓となってお湯に溶けていく。この浮遊物に湯の華という名称を与えた先人のセンスは素晴らしいと友人は語っていたが、こうして立派な湯の華を目にすると、その華やかな名前も至極当然のことかもしれないと思えてきた。孫六温泉の秘湯感と蟹場温泉の湯の華は今回の旅に於ける最大の思い出である。

 羽後交通バスで再び田沢湖駅へ戻ると本格的に雨が降っていた。駅の中は観光客で溢れていて、その中の一人は「KAWAGUCHI」と書かれたシャツを着ていた。はて、河口湖のことだろうかと考えてみたが、結論から言えば埼玉県の川口市であった。同じ団体と思しきおばちゃんが有していた保冷バッグが決め手となった。端をそれぞれテープで留めているが、これは間違いなく埼玉県で店舗を広げている「ぎょうざの満洲」の保冷バッグである。まさか遠く田沢湖駅で巡り会うとは。よほど声を掛けようかと思ったがやめておいた。見知らぬ人に「それってぎょうざの満洲のバッグですよね?」と声を掛けられたらどんな気持ちになるだろうか。
 田沢湖駅は最近開業したミニ新幹線の駅らしく近代的な設備で、二階には付近の自然をPRするための施設があった。だが、良く見てみるとなんだか自治体による玉川ダムの宣伝がメインであるらしい。映像も見てみたが、なんだか音声は小さいし玉川ダムがどうのこうのというメッセージばかり伝わってくる。ちょっと露骨かな。
 ようやく到着した田沢湖線普通列車に乗り込むと、次の赤渕駅までの間、信号所で二回停車するとの放送が入った。主にこまちとの待ち合わせなのだが、最初の信号所では特に音沙汰もなく停車後にすぐ発車してしまった。一体何なんだろう。

 そして田沢湖線の真髄を知るに至る。トンネルを抜けて雪まみれの崖を走り抜け、ひたすら山岳の中を邁進していくのである。この電車がここを走っていくことが奇跡的にすら思えたが、それよりもここに新幹線を通そうと考えたという発想がすごい。秋田新幹線、恐るべし。あんなに可愛らしい愛称でありながら、毎日この過酷な線路を行き来しているかと思うと鉄道の偉大さを改めて感じる。そして、これならば普通列車の本数が極端に少ないことも頷けるような気がした。
 普通列車は信号所以外の各駅でも列車の通過待ち・行き違いを頻繁に行い、なんだか東海道新幹線でこだまに乗っているような気分にさせられる。特に雫石の駅では時間がかなり余ったので改札を抜けて駅の構内を練り歩いた。雫石は宮沢賢治ゆかりの地であり、銀河ステーションと愛称が付されていて、二階の通路の屋根には立派な銀河のイラストが描かれている。他にも「雫石あねっこ」をキャラクターとして売り出しているらしく、売店には関連グッツが多種多様に売られていた。
 盛岡に到着後は雨に降られつつも宿にチェックインし、国際興業バスの中古車である岩手県交通のバスに乗って盛岡名物の冷麺を食べた。駅前のぴょんぴょん舎という有名な店で中辛を注文してみたが、わりと辛かった。宿はスーパーホテルという全国展開をしているチェーン店の格安宿である。