秋田温泉旅行 その1

 午後二三時五六分、冷たい夜風が目の前を通り抜ける埼玉県のJR行田駅。ベンチに座り、自分は時計の文字盤をじっと眺めていた。今日は東北旅行の初日である。どうしてこんな場所にいるのか疑問を抱く人がいるかもしれないので簡単に説明しよう。

 快速ムーンライトえちご。新宿始発、池袋を経由して高崎線上越線をひたすら北上して新潟に至る快速列車である。快速列車であるため、ちまたで話題の「青春18きっぷ」で乗車することができるが、「青春18きっぷ」は1日単位の普通列車自由乗車券であり、一方でムーンライトえちご新宿駅を出発するのは23時10分のことである。日付変更時刻を越えて列車は走るため、本来ならば青春18きっぷが二日分、もしくは午前0時を過ぎてから最初に停車する高崎駅(1時13分発)までの乗車券が別途必要となる。新宿から高崎までの料金は1890円。わりと馬鹿にならない値段だが、これを節約する方法が一つだけある。快速ムーンライトえちごの停車駅は新宿、大宮、池袋、高崎。一方で、この列車の前を走る普通列車高崎線内を各駅に停車していく。北鴻巣0時01分、吹上0時04分、行田0時07分、そして高崎到着は0時55分。前日までの料金を北鴻巣まで支払い、当該列車を利用して高崎でムーンライトえちごに乗り換えると、北鴻巣―高崎までの運賃を節約できる。これが案外大きくて、ざっと1000円くらいの違いはある。
 自分は夜7時くらいに家を出発し、北本駅から徒歩15分ほどのところにある温泉で時間を潰してから当該列車に乗るという計画を立てた。浮いた金で温泉入浴回数を稼ごうという作戦である。
 北本天然温泉「楽市楽湯」は少し古めのスーパー銭湯に温泉入りの露天風呂を付随させたような施設だった。駅からは多少あるくものの国道沿いの好立地で客入りはかなりある。内風呂は全て白湯であるが、「楽市楽湯」の名の通り、入浴を楽しむということがコンセプトとしてあるらしい。ジャグジー風呂が充実しているのはもちろんのこと、本格的な電気風呂、お湯の中で歩行することを主眼においた浴槽、そして最も気になったのは階段状の浴槽から屹立しているジャングルジムのような鉄柱である。一体何なんだこれは。
 親切にも各浴槽にはいかに施設を利用するのかというイラストが描かれていて、ジャングルジムの麓には女性が裸体のまま「うんてい」の要領で浴槽内を移動している様が描かれていた。滑稽すぎて卑猥さは全く感じられない。この棒にぶらさがって移動すると確かに下半身はお湯の中に入り、通常の「うんてい」よりも比較的楽に移動することが可能である。しかし、こんな施設を導入しようと考えた人は一体何を思って採用したのだろうか。ジャグジー風呂は一通り試したものの、これだけはさすがに手つかずのまま浴場を後にした。ちなみに、比較的好印象だったのはボタンを押すとジェット噴射で身体が浮かび上がる浴槽である。逆に肩こりを治すというジェットはよく分からなかった。
 温泉の方は関東でよく見られる茶褐色のお湯で、通常よりも若干薄めだという印象を受けた。それでも露天風呂の雰囲気は良好で、泉質のためか肌はすべすべになる。まあ、新宿から乗って高い料金を払うよりは良い選択をしたと考えている。
 北本駅に戻り、230円を支払って行田駅へ。本当であれば北鴻巣までの乗車券で当該列車に乗り、列車内の車掌か高崎駅の駅員に申し出ることもできたのだが、高崎駅は混雑が予想されたし、なんとなく駅の人に印を押してもらいたかったので行田駅まで行くことにした。吹上にしなかったのは北本からの料金が同じだからである。
 行田駅改札前のベンチ。寒さをこらえながら0時00分を確認し、行田駅の改札へ足を運ぶ。駅員の方も僕がやりたかったことを了解したらしく、快く青春18きっぷを手にしていた。そのまま印を押すのかと思いきや、一旦机の中をまさぐり、大切そうな木箱を取り出した。箱を開けるとそこにはとても小さいゴム製の粒がびっしり並んでいて、端にはピンセットがあった。そのまま駅員はピンセットを手に取ると、活版印刷の要領で印の日付を取り替えて、僕の青春18きっぷに印を押してくれた。3月21日、行田駅。感慨深い瞬間だった。青春18きっぷを受け取ると、駅員に見送られつつ、夜のホームに滑り込んできた高崎方面の列車に飛び乗った。

 高崎駅の窓口は案の定混雑していた。快速ムーンライトえちごに乗ろうと考える人自体が鉄道に一定以上の知識を有する人であるから、当然この裏技は知っているのだろう。そんなことを考えつつ、ホームには国鉄色の車両が到着。かつてはエル特急の名で親しまれ、特急列車といえばこの車両だと一世を風靡した車両も、現在はこんなところで活躍している。車内にはすでに乗客がたくさんいたが、これに乗り込むのはまだ早い。高崎線の反対側ホームにいくらかの人々がカメラを向けている。上野からやってきて当駅で快速ムーンライトえちごを追い越し、一路金沢を目指す急行能登が到着である。こちらはもうほとんど見られなくなってしまった国鉄色のボンネット車両が使われており、これに郷愁を感じる人も多いのではないだろうか。こうして午前一時過ぎの高崎駅には国鉄時代に活躍した盟友が揃い、それぞれ北陸・新潟へ向けて闇の中を再び走り出していった。
 この時期のムーンライトえちごは満席である。まあ、新潟まで格安で行けるので有れば多少労力を払っても使おうという人はいるだろう。自分の隣は結局最後まで空席で、特に気兼ねなく利用することができたが、自分の近くに座っていた親子連れの赤ちゃんが夜通し泣いていて、結局眠れたかどうかわからなかった。新潟到着は4時51分、あっという間の旅路であった。
 すぐの接続で白新線の快速列車に乗車。使用されていたのはロングシートE217系で、特にこれという特徴もない車両なのだが、個人的にはちょっとした思い入れがある。ちょっとマニアックな話をすると、制御装置に東洋製のVVVFインバータ(GTO素子)が使用されており、これは東急多摩川線・池上線を走る主な車両と同じである。かつて自分は洗足池に在住していて、その頃に出会った友人が新潟に引っ越したため、小六の時に彼の元へ会いに行ったのだが、そのときに「地元を走っていた列車と同じ音がするね」という話題で盛り上がった車両がこれなのである。そんな彼は兵庫県に移ってキリスト教の洗礼を受けたらしいが、今頃どうしているだろうか。
 さて思い出の車両の中では爆睡し、羽越本線の村上で乗り換えた普通列車の中でもほとんど眠っていた。本格的に目が醒めたのは山形県酒田駅で、一時間半ほど待ち時間があったので駅前散策をしようかと思ったが寒くて断念、駅弁を買って朝食にしようと決意した。酒田駅の名物駅弁は「ががちゃおこわ」。つい最近売り出したらしく、だだちゃ豆を用いたうるち米が駅弁の中に敷き詰められているだけのシンプルなものである。豆の芳醇な味がご飯全体にしみこんでいてとても美味しい。そこまで量が多いわけではないので、ちょっと小腹を好かせた時にもってこいである。

 さて、駅弁を食べてしまってついにやることがなくなり、時刻表を繰っていると酒田駅には羽越本線だけでなく、陸羽西線も発着することに気がつき、ちょっと近くの駅まで往復しても時間が余ることが発覚した。思い立ったが吉日、0番線に停車していた新庄行きのキハ110系に乗車。キハ110系は今や東北地方の気動車の代名詞であり、関東地方でも八高線などに用いられているが、この列車はいつ乗っても良いものである。座席は2列・1列のクロスシートで長時間乗っても腰が痛まないほど柔らかい。加速も早く、気動車としてはとても優秀である。陸羽西線陸羽東線にはここだけのオリジナルカラーの車両が存在していて、それぞれの愛称である「奥の細道最上川ライン」「奥の細道湯けむりライン」を全面に押し出している。この列車がキハ52系など国鉄時代の英雄を駆逐していくことは残念なことであるが、この列車自体に罪はないし、すっかり東北の顔として定着しているので愛着が沸くのである。

 結局酒田から二つ目の砂越駅まで往復し、酒田からは再び羽越本線の旅を続けた。途中下車したのは山形県の北限から二つ目の駅である吹浦駅。ここから徒歩15分のところにあぽん西浜という公共温泉施設がある。料金は350円、内湯は良くある塩化物系の一般的なお湯で、サウナや水風呂が付いているのは便利だなという感想を抱いたが、それ自体は大したことがなかった。驚いたのは源泉かけ流しの露天風呂で、こちらはこぢんまりとしていながらも内湯とは全く異なる良質のにごり湯が岩風呂を満たしている。施設名の「あぽん」というのは身体が良く暖まるということを意味するらしく、その看板に偽りはなかった。もともと塩化物系の温泉は「熱の湯」という愛称が付くほど保温効果があり、有名どころでは熱海温泉などが挙げられる。
 あぽん西浜の隣にあった施設で昼食。「ざる中華」という謎の商品を注文してみたところ、出てきたのはラーメンの麺をそばの汁に浸しながら食べるという、文字通り「ざる中華」でなんだかげんなりした。
 食後、やや時間が余ったので西浜海岸を散策。防風林はグリム童話を彷彿とさせる森の中だが、砂の坂道を登っていくと眼下に広大な日本海が広がる。遠くの方で釣り目的の客が蠢いている以外人の気配はなく、しばし雄大日本海を眺めていた。この時は天気も穏やかで最高の景色だった。目の前は砂浜と日本海、そして背後には雪を被った鳥海山の勇姿。なかなか良い旅の思い出となった。


 一度駅に戻ったがそれでも時間が余った。周囲に誰もいなかったので吹浦駅に掲げられたご当地の鉄道唱歌を高らかに歌ってみたり、無為に写真を撮ったりしてみたがとても暇だったので近くの神社へ行くことにした。その名も鳥海山大物忌神社、行ってみると予想よりも立派な神社で、本殿の隣にずっと上まで続いている階段がある。興味本位で登っていくと素晴らしく立派な社殿が待ちかまえていた。賽銭箱の前に看板があり、どうせこの中は立ち入らないで下さいとでも書いてあるのだろうと思いきや、近くで見てみると「ご参拝お疲れさまです」との旨。さすが山形、良心的である。後で調べてみるとどうやら鳥海山山岳信仰を担ってきた由緒正しい神社であり、行ってみて本当に良かったと思っている。旅は思わぬ出会いがあるから面白い。

 再び羽越本線の旅を続けよう。
 山形県の北限である女鹿駅の廃墟のようなたたずまいはすごかった。

 次の下車駅は秋田県岩城みなと駅。なんだか人名のような駅だがこちらの近くにも温泉施設があり、お湯自体はたいしたことがないが、広大な日本海を眺めながら温泉に浸かることができる。岩城みなと周辺は比較的近年に開発された区域で、漁業やスモモで有名である。特産品のスモモソフトクリームを食べてみたが美味しかった。

 秋田駅奥羽本線に乗り換えてそのまま横手まで。横手駅は昨年の夏に訪れてマイナス30度の極寒体験ができるかまくら館を訪れ、駅前で先輩と偶然に遭遇した思い出の場所だが、今回はさほど町歩きをせず、駅前徒歩1分のホテルが本日のお宿である。ホテルの10階に部屋があったが、横手駅から横手の町並みを一望できる素晴らしい眺めの部屋だった。夕食は横手やきそばと味噌味のきりたんぽ。横手やきそばはソースの水分がやや多めで目玉焼きの載った焼きそばである。きりたんぽは非常に美味だった。お米が違うのだろう。味わい深い味噌と相まって絶妙である。
 このホテルは横手駅前の一等地を牛耳っている企業の傘下であり、ここから歩いて1分のところにある同系列の温泉施設の無料入浴券が二枚もらえるのである。こちらは比較的新しい建物でとても清潔感があり、お湯は無色透明ながら気持ちよかった。今まで旅行して様々な宿泊施設に泊まってきたが、コストパフォーマンスを考えてもここはその中でも相当良い宿だったと言える。