再考、ギャルゲーは文学か?

 かつて、奈須きのこ氏のギャルゲーであるFateは文学か? 論争がネット上で巻き起こり、自分はギャルゲー皆文学だといったような主張をした記憶がある。この認識自体は間違ったものではないはずだ。ただし、「文学と呼べないギャルゲー」の存在も否めない。横浜の某ゲームメーカーの作品が海外から批判が来て販売中止に追い込まれた事件があったが、そういった作品と、文学として尊重されるギャルゲーにはどのような違いがあるのだろうか。


 まずはギャルゲー=文学だ、という説を補強したい。
「文学は文学であり、ギャルゲーはギャルゲーであって、Fateはギャルゲーなのだからその良さを認めるべきだ」という反論があった。この意見は確かに頷けるが、僕の仮説は文学それ自体の幅の広さに基づいている。つまり、文学=小説ではない。文学とは小説を含め、戯曲、表象文化、その他諸々を扱う学問であり、ギャルゲーもその範疇に入るのではないか、と僕は思うのだ。
 ワーグナーは演劇において、それまで音楽のために蔑ろにされていた脚本や劇そのもの、舞台装置の類も含めて「一つの総合芸術だ」と認め、音楽を含めたすべての要素の重要性を説いた。それ以降、演劇というジャンルは音楽という要素に固執することなく、各要素のクオリティーを上げつつ文化的になっていったのである。
 文学で重要なのは文字だけではない。文というのは「あや」であり、表面上には現れない人間や社会の裏側、深層心理といった意味がある。文学というのは文字などを頼りにそれらを呼び起こすという学問でもある。単に文字で記述されたことを読みとっていくだけではなく、それらを通じて何らかの理解を得る学問なのだ。
 ギャルゲーとは一定の枠組みのある文学だと言えよう。枠組みというのは主に「少女の心理的トラウマを描写されない主人公が解放すること」「性交描写があること」「シナリオ末尾が多様な場合もあること」などが挙げられるだろう。また、文字のみで記述されるのではなく、美麗なCG、そして音楽を含めて、一つの「総合芸術作品(ドイツ語ではGesamtkunstwerk)」と言えるのではなかろうか。ワーグナーや諸々の表象文化でさえ文学は扱うのだから、ポストモダンの文学がギャルゲーを扱って何が悪いのだ、と僕は主張する。ワーグナーの演劇をその詩のみを研究してわかったつもりになるのはナンセンスであり、ギャルゲーに音楽やイラストが付いているから文学ではないと主張するのもナンセンスなのだ。


 しかし、ワーグナー作品と現代のギャルゲーを同じ土俵で語れない理由がある。一言で表せば時代の違いなのだが、もっとわかりやすく言うならば「受容構造」の違いだろう。
 芸術作品は「受容者がなければ意味がない」。演劇をいくら上演しても観客がゼロであれば全く意味がないし、長い文学作品を本にまとめても本をめくる人がいなければその芸術作品は完成していないも同然である。そのため、受容者の質を考えることもまた重要だ。
 端的に違いを表すと、ドイツ文学は「作者が自分のために書いたもの」であり、日本文学は「市場のために書かれたもの」である傾向が強い。ギャルゲーは秋葉原を中心とした購入層が国内に展開し、製作会社も受容、あるいは需要層を強く意識して作品を作り込む。田中ロミオの「最果てのイマ」のように、作者が自分の哲学的命題を処理するために需要層のことをほとんど考えないで作った作品もあるにはあるが、中には「少女の心理的トラウマを描写されない主人公が解放する」というギャルゲーの枠組みを無視し、ひたすら性交のみに主眼を置いた作品がかなり多く作られてきた。これらの作品がギャルゲーを「総合芸術作品」から逸脱させるものであり、ギャルゲーは文学とは異なるというイメージを人々に植え付ける物なのである。ただしそれらは市場で売れてしまう。消費者がギャルゲーを総合芸術作品として捉えず、「性交」シーンのみを目的として買っている場合が多いからだ。つまり、ギャルゲーが文化的に評価されないのは購入層の質問題なのだ。買わずにWinnyなどで済ませてしまう人も多いというのも原因の一つだろう。政府が持ち上げているわけでもなく(むしろその逆で規制している)、評論の場が少ないという問題もある。
 勘違いしないで欲しいが、単なる「抜きゲー」を批判しているのではない。「抜きゲー」と称される作品であっても文学的過程を秘めた良作は存在する。「性交」という要素が殊に優れていて、その他の枠組みもそれなりにクリアしていれば立派な文学である。

 この作品は文学であってこの作品は文学ではないという単純な判断はできない。ただ、文学にしては薄っぺらいギャルゲーが多いなと感じるということを言いたいのである。ギャルゲーが文学から外れているのではなく、ケータイ小説の普及や安易なライトノベルの逓増と共に、文学自体の質が変容しているのだ。


 それでは、具体的にいかなる作品が良くて、いかなる作品が悪いのかを僕なりに考えてみたい。
 問題点として取り上げたいのは記号化されたキャラクターの是非である。独立した作品世界の住人なのにもかかわらず、他の作品と全く同じキャラクターがいたるところで散見される。これは「草食系男子」「ツンデレ」のようにキャラクターを一様に形容し記号を押しつける現代の風潮の産物かもしれない。以前も同じことを書いたが、「ツンデレ」ならば個人によって主人公に対し辛くあたってしまう心理的原因があるのであり、「ヤンデレ」ならばそれぞれの心理的トラウマがある。それらを蔑ろにして、釘宮だからツンデレだ、ヤンデレだから可愛いと一様に判断を下してしまうのは本当似良くないと思う。需要層がこのような風潮だから、作品を制作する側もキャラクター設定に手を抜いてしまい、単なる「ツンデレ」としか決めずに物語を構築していくのだろう。ここに悪循環が生まれている。

 皆さんは「RAINBOW GIRL」という曲をご存知だろうか? ニコニコ動画というサイトで「七色のニコニコ動画」という組曲の中に取り上げられ、知名度を増した作品であるが、ここには「画面の外に出られない」「ゲームプレイヤーに自分の意志を伝えられない」というメタ物語的な視点で二次元美少女を主人公として物語世界が構築されている。この歌詞構造自体は評価に値するし、この曲を聞いて感動したという方も多いのではなかろうか。
 ただし、僕自身は感動しながらも一抹の違和感を抱いた。それは、歌の主人公である「二次元の女の子」が完全に人間とは離れた存在として描かれている、ということだ。画面から出られないなどとぼやくのは、名曲「初音ミクの消失」などに表される初音ミクのような存在に近い。初音ミクの場合は伝統的な「心を持ったロボット」(例:ドラえもん手塚治虫作品、「2001年宇宙の旅」のHAL9000など)の延長として捉えることが出来るが、ギャルゲー作品の登場人物たちが人間ではなく、二次元という生命体らしきものが各々画面の中でローリングプレイを行っているのであれば、ギャルゲーも文学の範疇から外れてしまうだろう。

 二次元は二次元であって人間ではない、と主張する人も多い。ただし、ここに大きな落とし穴があるのだ。文学とは人間の深層心理をえぐるものである。前述した「感情を抱いたロボット」のように、非生命体側からメタ的に人間の心理とは何ぞや?と追求するのであれば良いが、二次元には自ら二次元であるという出発点がないわけであり、メタ的な視点に立つことはできない。「RAINBOW GIRL」のみがメタ的な視点に立つことができたのであり、人々がこの曲で感動するのはそれがあったからなのだ。

 二次元で描かれたキャラクターを人間と認めて、はじめてギャルゲー=文学の公式が成り立つ。キャラクターを二次元としか捉えず、何でも消費者側のご都合主義で済ませてしまうから、文学として非常に薄っぺらなギャルゲーが登場してしまう。ギャルゲーのシナリオライターに頑張って欲しいというのも一つの願いだが、これからのギャルゲーを文化的水準にあげられるかどうかは、まさしく我々消費者の行動に掛かっているのである。日本の文化は一部の制作者のみで構成されるのではなく、消費者を含めた全体で揺れ動いていく。児童ポルノ法の案が国会で審議されているが、今一度ギャルゲーとは何ぞやと見直し、良い作品を評価していくことが我々に求められることだろう。二次元は人間じゃなくて二次元だというのも一つの意見だが、今は児ポ法対策としても、そして将来のギャルゲー文化を見据えてもギャルゲーを一定の文化水準に押し上げる必要がある。

 僕自身は、二次元キャラも一人の人間であって欲しい。自分の感情を押し込めず、主人公に思いっきりぶつけて欲しい。CROSS†CHANNELの登場人物があんなに輝いているのは、それぞれ人間としての悩みが籠もっているから、という単純かつ当たり前のことなのだ。そして、消費者側もヒロインたちの苦悩を感じ取って欲しい。それでこそ、ギャルゲーの迎える「性交」そして「繋がり」が輝いてくる。これこそ、ギャルゲーの有する文学的特質なのである。