ダムに沈みゆく幻の名湯を訪ねて

 ツーデーパスの有効利用を考えたとき、ちょうど群馬県あたりが日帰りもできてちょうどいい、まだ入っていない有名温泉がある、などという理由で、行く場所は簡単に決まった。とりあえず草津温泉を目的地に据え、川原湯温泉草津の近くだし、駅から温泉まで歩いていけるのでちょうどいいと判断したのだった。

 草津温泉は観光客で混雑していた。確かに西の河原露天風呂はエメラルドグリーンのきれいなお湯が広々とした浴槽に満ちていて、周囲の自然も相まって大変快適だった。

西の河原公園は確かに荒涼としているものの、恐山を見たあとだとお子様チックに見える。そういえばお地蔵さんがなぜかとっとこハム太郎の帽子をかぶっていたのだがなぜだろう。

 温泉街自体がごみごみとした歓楽街的であり、地元の人々が通う共同浴場と来訪者が入る浴場が明確に区分されていたので、僕はあまり好ましく思わなかった。

 いわゆる「ジモ専」浴場の問題は僕の地元である飯坂温泉が直面し、それ故に退廃していった過去があるからである。お湯が熱すぎるので水を足そうとした外部者に対し、お湯の質が下がるだろうと言って排斥する地元民が多く、それ故に外部者は共同浴場に寄りつかず、はっきりと住分けができてしまうのだ。
 地元民専用という浴場はあるのだから、観光開発に力を入れたいのであれば、外部者にとっても居心地のよい浴場空間を目指すべきである。草津温泉は豊富な湯量とその知名度故に観光客が激減することはないだろうが、飯坂温泉で実際に起こったことなので是非とも注意していただきたい。
 そして草津温泉は強酸性かつ高温であり、いくら温泉が好きな僕でも、四カ所くらいまっていると肌の具合が心配になり、精神的にもげんなりしてきた。西の河原露天風呂のすばらしさはもう一度特筆しておくが、草津は僕好みの温泉街ではなかった。端的に、人が多すぎるせいかもしれない。

 向かった先は川原湯温泉。同名の駅から歩いて五分ほどで温泉街に到達するのだが、温泉街というよりも森林を貫く道路の周囲に廃墟が乱立していて、たまに営業している施設があるというくらいだった。人工物に対して自然が圧倒的優位に立っていて、途中、滝や急な崖など、見所がいろいろある。大幅に斜面を削って平らにした場所があったものの、そのときはあまり注意を払わなかった。

 これこそが僕好みの温泉街だった。見上げると木々が鬱蒼とおい茂っていて、ひぐらしの鳴く音が響いている。人の気配はまるでない。

 廃墟の脇道をあがっていくと、聖天様露天風呂にたどり着いた。聖天様とはいったい何者だろうという疑問を抱きつつ、料金100円を箱に投入すると、チーンと鐘の音がした。これが入浴を迎え入れてくれるサインらしい。
 森のただ中にある露天風呂だった。崖の上に浴槽と屋根と脱衣のための簡単な足場があるだけで、他は何もない。森林に対して素っ裸をさらす形になる。僕が訪れた中でも一、二を争うワイルドな露天風呂だった。

 お湯に浸かると、これがとても気持ちがいい。観光ガイドにはお湯が熱めなので注意と書かれていたが、はっきり言って草津温泉外湯の尋常ではない熱さ(地元民は血流がよくないから熱く感じるんだと言っていたが、全く科学的根拠のない話であり、あまり温度の高すぎる温泉に入るのも良くないのである)に比べればこちらはずいぶん良心的で、長湯も可能だと思った。そしてなんと言っても昔ながらの良湯を思わせる硫黄の香りが最高だった。白く濁ったお湯には硫黄の成分が入っていて、完全に僕好みのお湯だった。これに100円で入れるとは……。草津のように外部者の入りにくい空気は全くなく、これこそが共同浴場のあり方だと再認識した。
 湯上がり後、聖天神社と書かれた鳥居があったので足を運んでみた。通路はあるものの、長い間人が立ち入っていないようで、草木は生い茂り、それらをかきわけないと前に進めない。虫がぶんぶん飛んでいる。

 ようやくたどり着いた先にはちょっとした空き地があり、石柱と簡単な神社の建物があった。この神社がおそらく聖天神社なのだろう。そう思ってよく見てみると、そこには男根を模した大小さまざまの木造レプリカが据えられており、これまた木造の女体がちょうど男根をまたがるように鎮座していた。

 古き良き土着信仰である。高校の頃、某国語の先生がこういったファルス(=象徴的男根)崇拝は長野県辺りで良く見られると話していたが、まさかこんなところで巡り会うとは思ってもいなかった。手を合わせた。
 帰り際、この温泉が実はダム計画により将来的に沈んでしまうものだということを知ってしまった。僕はその大事なことを知らずに来訪していたのである。まだ入っていない共同浴場もあり、どうしてもまた来たいと思ったので、ツーデーパスの二日目は茨城県の方を攻めようかと思っていたが、急遽予定を変更して再び群馬県に行くことにしたのである。


 帰宅後に設定した翌日のルートは、午前中に伊香保温泉を周り、川原湯を再訪して袋倉駅の近くにある半出来温泉を巡るルートだった。伊香保は母親が下着を変態に盗まれた場所だとさんざん聞かされていたが、有名でもあるためやはり気になっていた場所だった。

 そんなわけで翌日はまず伊香保を訪問。ここは日本初の「温泉都市計画」を実行した温泉街であり、石段の左右に旅館を配し、上の方にある源泉地からのお湯を滝状に流して、各旅館に行き渡るように設計したとのこと。

 なるほど、これは面白い。そして源泉地近くには伊香保露天風呂があり、あつ湯とぬる湯に分かれた浴槽に金色の美しいお湯が満ちていて、非常に快適だった。西の河原露天風呂ほど広くはないが、それが気にならないほど野趣満点で、いつまでも入っていられる。

 温泉街も風流で、石段途中の店で食べたサラダうどんは具沢山な上にコシの強い水沢うどんを用いているようで大満足だった。

 石段の上下は若干しんどいが、はっきり言って草津よりも伊香保の方が温泉街として断然気に入った。



 そして川原湯温泉再訪。吾妻線乗車中はとてもいい天気で日差しが強く、蒸し暑いくらいだったのだが、いざ川原湯温泉に着いてみるとどんよりし始めた。昨日は訪問しなかった王湯という共同浴場に着いたとたんに雨が降り始める。

 ここは300円で内湯と露天風呂が楽しめるお得な共同浴場で、源頼朝ゆかりの地であり、木造建築の趣深い建物となっている。内湯はほぼ無色透明のお湯だったが、ほんのりと硫黄臭が漂っており、温度も程良くなかなかいい湯だった。
 さて、露天風呂である。
 木造の廊下を進み、階段を下がると到着。狭い浴槽だが屋根はあるのでなんとかなりそうだ。既に二人ほどが入浴していた。話を聞くと、静岡から車で来たそうだ。
 こちらは内湯に比べて若干濁っている。やっぱりいい湯だ。昨日のお湯を思い出しながら、やがてダムの底に沈み幻の名湯となる場所に思いを馳せようとしたのだが、雨足はしだいに強くなっていきもはや豪雨となり、露天風呂にも強く雨が入っていた。屋根があるので直接問題はないものの、跳ね返りで顔にお湯がかかるし、なんといっても目の前の景色がすごいことになっている。辺り一面の森林は豪雨を受けて大迫力になっていた。
 そして僕は事件が起こるまで、群馬名物を忘れていた。群馬の象徴たる気象現象、それは雷である。米の銘柄にも雷のモチーフが使われ、以前富岡製糸場を見学した際に僕がもっとも感銘を受けたのも、工場の上にハート型の避雷針が立っていたことだった。
 何度か遠くに落ちていたが、次第に音が大きくなっていき、やがて轟音と共に目の前に稲妻が錯綜した。すぐ近くに落ちたようで、僕は思わずびっくりしてしまった。一緒に入っていたおっさんは「今、腰を浮かしただろう」と僕を嘲笑していたが、その後長きにわたる雷の応酬でその人も十分ビビっていたのでお互い様だろう。
 これはきっと聖天様の祟りに違いない。既に半出来温泉に行くことを諦め、そのまま帰宅しようと思ったのだが、駅まで行けるかどうかも不安だった。
 浴場を出る直前、浴場管理人のおばちゃんに心配された。今は待っていた方がいいのではないかと提案される。しかし電車の時間が迫っていたので、僕は親切な管理人に別れを告げ、外に出てみた。
 予想を遙かに上回る大惨事だった。傘をさしていても一気に全身が水浸しになり、道路は流れる川と化していて、管理人の方に言われたとおりとてもじゃないけど駅までたどり着けなかった。仕方がないのですぐ近くにあった旅館に避難した。水車の宿という異名を持つ山木館だ。

 ここはガイドブックにも特集されている老舗で、日帰り入浴も受け付けている。女将さんに事情を話し、日帰り入浴することにした。そしてこれが思わぬ大正解だったのである。
 内湯に入ってみてびっくり。岩を配した庭園風のこぢんまりとした空間にはわずかに濁ったお湯が入っていたのだが、良く見てみるととてつもなく大きい湯の華が浮いている。

 以前、福島県の不動湯温泉を訪ねた際、そこの湯の華を「するめいか程の大きさ」と形容したが、ここのはそれよりも一回り大きめで、浴槽の下の方にたんまり溜まっている。これは文句なしに素晴らしい。どうやら混合泉らしく、肌色の湯の華には時折黒い粒も見られた。
 感動のあまり声をあげてしまった。僕は聖天様に感謝した。おそらく、聖天様は祟りでもなんでもなく、僕をこの宿のこのお湯に導くために、雨を降らせ雷を降らせたに違いない。まさに聖天さまさまである。
 それにしても、こんな素晴らしい温泉街をダムの底に沈ませてしまうなんて……。きっと、ダムの建設に携わった人々には聖天様の祟りが訪れるであろう。
 この旅館には少し離れたところに露天風呂もある。水車の隣にある落ち着いた浴槽で、景色も木造の建物も素晴らしいのだが、あいにくこちらのお湯は循環で、内湯ほど大きい湯の華は見られない。それでも無色透明のお湯を良く見ると細かい湯の華が舞っていて、十分良い湯だということが言える。
 再度強調するが、ここの内湯は文句なしに素晴らしかった。ダム底に沈んでしまう前にまた訪れたい名湯である。こんないい旅館、永久に続いて欲しいものなのだが、非常に嘆かわしい。現実は非業だ。聖天様の力でなんとかならないだろうか。ここまでこの文を呼んでくれた読者諸氏も、是非一度は足を運ぶべきである。ここは文句なしの名湯だと自信を持って言える。


 湯上がり後、雨はあがっていた。駅には無事到着したが、電車が運転見合わせとのことで、バスの代行になった。

 皆は苛ついていたが、バス好きの僕はツーデーパスで京急以外のバスに乗れたことを嬉しく思った。旅にトラブルは付き物である。中之条まで補助席での移動になったが、これもまたいい思い出だ。
 高崎駅上信電鉄ホーム近くで食べたラーメンが美味かった。だるま弁当の「たかべん」直営の店で、ここのラーメンはスープの味が濃厚でわりと有名らしい。それなのに350円という安さ。これはお勧めだ。


 はっきり言ってツーデーパスは安すぎる。これで日本の魅力を再発見してみて欲しい。それらが幻となる前に。