借りぐらしのアリエッティ評(ネタばれ含注意)

 結論から言えばとてもいい映画だった。とても静かでせつない。最近よくある感動ものの無駄に大仰なストーリー展開はいっさいなく、とても静かにストーリーは進んでいった。とくに大きな事件が起こるわけでもなく、とある一軒家の中で物語は完結する。ひょっとしたら、ジブリ映画でもっとも規模の小さい作品かもしれない。
 他の感想を聞いていると、二人の恋も実らないまま終わるので、いまいち煮えきらない人もいらっしゃるようだ。メッセージ性に欠けると評する人もいる。しかし、僕はこの作品こそ、そろそろ大円団に近づいてきた宮崎アニメの中で、とくに貴重な作品になるのではなかろうかと考えている。
 宮崎アニメは古くから「自然と人間の共存」というテーマでアニメ製作に取り組んできた。今までの作品では、それぞれそれなりに宮崎アニメなりのヒントを提示して物語の帰結としていた。ナウシカもののけ姫はまさに主人公が人間と自然の共存方法について頭を悩ませて最適の選択を行っていくアニメであり、となりのトトロやその他の作品についてもその強烈なメッセージ性は読みとれるはずである。
 中でも宮崎アニメがとくにこだわったのは武蔵野周辺の地理だった。となりのトトロの舞台は東京西部から所沢にかけて、平成狸合戦ぽんぽこ耳をすませば多摩ニュータウン千と千尋の神隠しは高尾からさらに山梨へ下ったあたり(なお、ハクの正体は武蔵野市周辺を流れる川であったという説がある)、そして今回の借りぐらしのアリエッティについても、冒頭で小田急バスが出ているように、やはり武蔵野市小金井市周辺だと推測できる。中央線と時間軸を座標とし、西寄り・過去の物語は自然が優勢であり人間が戸惑う物語、東寄り・近年の物語は人間が自然を支配した後の話となっている。
 耳をすませばという映画は、当然二人の恋愛物語なのであるが、その恋愛がどこで繰り広げられているかが重要である。まさに、その前年に公開された平成狸合戦ぽんぽこにおいて、狸たちが必死に守ろうとしたにもかかわらず、人間が容赦なく奪い去った土地なのである。あの映画を見るとき、この事実を忘れてはならない。
 平成狸合戦ぽんぽこは辛辣な人間社会への批判だった。あの映画を鵜呑みにしていたら、それこそ多摩ニュータウンには住めなくなるであろう。それを危惧した宮崎駿が着手したのが耳をすませばであり、「すでに開発されてしまった土地の上で、なんとか人間と自然が共存していく術」を考えていこうとしたのが「耳をすませば」ではなかろうか。ジョンデンバーの「カントリーロード」の和訳が、本家の故郷に対する郷愁とは全く異なる、自分で力強く生きていくメッセージにおき変わっていることからも、これが単なる恋愛物語だけではないことを表している。人間社会に生きながらも、月島雫のように多感な生き方を宮崎駿は推奨したのだった。
 そして今回の「借りぐらしのアリエッティ」は今までの作風とは全く異なるところがあった。それは、「人間と自然が共存していいくことには限界がある」という、今までの宮崎アニメを覆すようなメッセージである。これは、作中で主人公が「君たちのような弱い部族は絶滅する運命にある」と不自然ながらつぶやいていることにも現れているし、なにしろ作品で二人が結局結ばれないことからもうかがえる。今まではその方法を模索していたのに、それを放棄してしまったのだった。いや、放棄というのは妥当ではない。アリエッティーと主人公は、人間と小人が共生できる社会を夢見たはずだ。そのための努力もした。けれども、少年は心臓病を患った非力な者であるし、アリエッティーは小人である。その壁をぶちやぶることは、ついにできなかったのだ。
 今までは子供と同様に社会からは隔離され、自然に親和性を持つ存在として描かれていた老人が、今回は悪役の一端を担っている。人間にもこういう人がいるのだという諦めが感じられる。正直、あのおばはんはかなり不評だったろう。ムスカのように高邁な思想を抱いて悪役をやっているのではなく、単にどこにでもいるおばちゃんの象徴だからだ。アリエッティーにとっては大事に感じられるが、あのおばちゃんのとった行動は、人間側から見ればそこまで不思議なことではない。現代の、東京の、武蔵野市に住む老人としては一般的ではないだろうか。
 つまり、現代は「となりのトトロ」のユートピア的な時間を遙か過去に置き去り、自然と共生するのが困難な時代になってしまったのだ。その狭間の中で、アリエッティーと少年の決してかなうはずのない恋物語が展開された。それは叶わないからこそ、宮崎アニメの真髄を表現するのに適切だったと思われる。
 まあ、もっといい方法はなかったんだろうかと、劇場を去ってから色々考えたのが本音だ。これがとなりのトトロの時代に展開された物語であれば、ひょっとしたら二人は結ばれていて、小人一家もあの家のドールハウスに住めたかもしれない。ただし、それは今となってはもう帰ってこない過去なのだ。
 このように考えてみれば、滅びゆく種族に着目した今回の映画はとても現代的で、意味のあるものだったと言えよう。人間だけのくだらない行き違いを描いて鳴り物入りに仕立てた恋物語とは、ストーリー背後の重さが違うし、儚さがまるで違う。ねがわくは、あの一家が今日も日本のどこかで無事に「借りぐらし」をしていることを祈るばかりである。