映画「空気人形」考察

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(この日記には作品のネタばれを含みます。注意!)

原作は漫画家の業田良家。当該作は読んだことなかったものの、「自虐の詩」は有名。
 主人公は性欲処理用の空気人形で、普段はおっさんの元で寵愛を受けているものの(そして性欲処理を果たしているものの)、突然意識が芽生えてしまい、勝手に動くようになり、おっさんのいない昼間は外へ出て遊ぶようになる。次第にレンタルビデオ店でバイトするようになり、そこで彼氏を見出す。前半はギャグ要素も多く、わりとありがちな「ロボットが人間の感情持っちゃいました」系列の話なのかと思いきや後半で戦慄。映画終わったときは背筋のゾクゾク感がとまらなかった。一言で感想を示すと、「ぞっとした」。本当に恐ろしかった。心を持つということがこんなに残酷だとは。とにかく空気人形役の女優の演技が見事で、最後のシーンの印象といったらもうトラウマになるレベル。いやはや、日本の漫画というもののレベルの高さに改めて敬服した次第です。映画のレビューでは、前半はとてもよかったのに後半が蛇足だったと述べるものが多いようですが、あのくらい救いようのない話にしないとメッセージ性がきちんとつたわらないという監督の意図があったのでしょう。僕はこの悲劇性を高く評価します。
 それでは核心部分に迫っていきたいと思います。なぜ、空気人形は最後に自分の恋人を殺害するに至ったか。これはあくまでも僕の推測です。
 フロイトの理論では、少年と少女がいかに性に目覚めていくかが説明されています。その中で、少年は自分の男根が去勢されるのではないかという不安に苛まれ、やがてその不安を克服していきます。少女は自分に男根が存在しないことに気づき、そのことに劣等感を抱きながらも、やがては客体としての自分を受け入れていきます。単純に言えば、空気人形はこの過程を経験しなかったのです。
 空気人形は自らが「性欲処理のためのオナペット」であることを理解していました。毎晩の行為、そして主人から放たれた衝撃の一言によって男性という存在のくだらなさを理解しつつ、一方で純一という人間には心惹かれ、彼のためであれば何でもしてあげてもいいと思うようになったのです。
 純一は空気人形に対し、「空気を抜いたり入れたりしたい」と言いました。この行為はもちろんセックスのメタファーです。人間が大量の遺伝子で構成されているものであれば、空気人形は空気で構成されていて、純一が彼女に空気を吹き込むという行為は、精子を注入すること以上に彼女を彼で満たせるのかもしれません。このシーンから伝わる妖艶なイメージからも裏付けられるでしょう。
 空気人形が意識を持って以来、人間の醜いところも良心もそれぞれに学んできましたが、優しい相手に対して覚えた事実は「いいことをしてもらったら、それを返してあげよう」という単純な理屈です。それまではひたすら主人の蛮行に耐えるのみでしたが、純一という心から好きな人に対しては、始めて「彼に対しても同じことをやってあげよう」と思うことができたのです。
 そして、このことが悲劇でした。
 セックスという行為は男女の体質上、どうしても女性側が受動の立場になります。この当然の原理を踏みにじり、女性側が男性側を犯そうとしたため、空気を吹き込もうとした純一の腹からは血が流れ出て、それが止まらず、結局は帰らぬ人となってしまったのです。「私は、純一に息を吹き込むことはできませんでした」という空気人形の一言が、客観的にこの悲劇性を捕らえることにより、より視聴者には重みを持って伝わってきます。
 空気人形が純一に対して行った行為は「彼に息を吹き込むため、腹の弁を開けること」。腹を切り裂くという行為は、性交において男が女にすることと酷似しています。女が男の腹を切り裂いたとき、そこに待っているのは「死」のみです。男根のない自分に気づき、自分は受動側に周る立場なのだと暗黙的に理解する過程を経験しなかった空気人形は、「相手にもこの快楽を」という純粋人間感情によって、不覚にも彼を殺すことになってしまったのでしょう。
 空気人形が悪いのではなく、それはいわば空気人形としての宿命だったのかもしれません。人間と違い、空気人形は意識を持ったときからすでに「性欲処理用の空気人形」でした。男性性そのものを生まれてきたときに強烈に植えつけられました。それとは対照的に、純一は性欲とは対極の位置にある存在、自分と同じ存在だと思い込んだのでしょう。だから、純一の行った行為を性交のメタファーだとは見破れず、純粋なプレゼントのようなものだと思ったのでしょう。当然、純一にも性欲はあったのでしょうけど、空気人形はお返しをしてあげたいと純粋に考えるのみでした。
「自分も空気人形みたいなものだ」と語ったはずの純一の腹から流れ出る大量の血液を見て、彼女は自分と人間の隔たりを強烈に意識したことでしょう。本来的に許されない恋だったわけで、それが悲劇につながっていったのです。だから、あのシーンはやはり必要だと思いますよ。「きれい」で始まり「きれい」で終わる映画ですが、美しすぎるそれらの描写がかえってこの悲劇性を増幅させ、我々に強烈なショックを与えるのです。意識を持った我々がするべきことを、空気人形は問うています。

(ちなみに、作品ホームページで監督の言葉が紹介されていますが、ここでも空気を吹き込むこと=セックスのメタファーであることが述べられています)